自見庄三郎の横顔
◇政治家を志した動機
九大医学部大学院終了後、アメリカハーバード大に主任研究員(講師)として留学。その際、同大に留学中のアフリカ・スーダンの青年医師と親しくなったが、その青年医師から「熱帯病で何百人も死んでいく。予防接種の制度があればそんなに死者を出さずにすむ・・ 」、という嘆きを聞き、医学の知識と経験を政治に生かすことを決意した。
もともと父親は医師のかたわら市議会議員を務め、祖父は県議会議員、曽祖父は衆議院議員(政友会)と政治家の血が流れ、ふつふつと血がたぎっていた。それがスーダンの青年医師の訴えでふっとう点に達した。
 
◇初当選は奇跡
昭和58年衆議院議員選挙に初出馬して初当選した。選挙区の福岡4区(定数4)には自民党政調会長で通 産相もした当選7回の大物、田中六助さんをはじめ社会・公明・共産の現職各一人が確固たる地盤を築き、新人、しかも無名の医師が割ってはいる一分のスキもなかった。
それを百も承知で挑戦したのは学生時代に培った頑固なまでの強い意志とそれを貫き通 す強じんな行動力の支えがあったからである。
九大医学部在学中は学園紛争のまっただ中。全共闘全盛期だったが、当時少数派の学園正常化委員会の委員長を敢然と引き受け、学園正常化の先頭に立った。アジトを転々としながらも理論武装し、全共闘と堂々と理論闘争し、全共闘から一目おかれていた。
その時のなにものにもおそれない勇気とどんな相手でもひるまない行動力が初の選挙で生きた。マスコミは奇跡の当選と呼び、現職の公明党の候補者に当選を打ち、万歳写 真まで掲載するミステイクのおまけまでついた。
 
 

◇金太郎議員

シンボルマークは「金太郎」。気はやさしくて力持ちというわけである。口グセが「初心忘れず、驕(おご)らず、高ぶらず」の通 り、人に接する態度は笑顔を忘れず言動は謙虚。まさに医者が患者に接する態度そのもので、地元では好感を持って迎えられている。
地元の北九州市が活性化の最大のポイントとしている新北九州空港(すでに着工、2005年に完成予定)については建設費の予算化、自衛隊の空域調整など難問を解決した。アジアに開かれた百万都市を目指している同市が渇望していたFAZ(輸入促進地域)の地域指定を通 産政務次官時代、自らの手で実現するなど地元への貢献は数多くあるが、手柄顔一つしなかった。ところが、小選挙区になって一騎打ちの選挙戦になり、少しは実績を自分の口から有権者に報告しなければならなくなり、やっとのことで地元への貢献実績を口にしたくらい自慢話にはシャイである。


◇数少ない医者出身
衆議院議員で医者出身は自民党で4人と少ない。このため自民党医療基本問題調査会の会長代理で、党内では医療の現場をしり(大学卒業後、数ヵ所で勤務医)医学の専門知識の蓄積のある議員として重用されている。
”政治の父”として敬愛していた故渡辺美智雄元副総理が病で倒れたときは、いち早く症状を看て取り、入院先をてきぱきと決め、大いに面 目を施した。
臓器移植法は中山太郎元外相と一緒になって終始立法に努力、法案提出者の一人でもある。
健康保険法の改正、公的介護保険法の創設など医師出身という実績を生かし活躍。
地元から「最近はよくテレビでお姿を拝見」と電話や手紙をもらい、人なつっこい笑顔がこのところ絶えない。


◇地声は大声
先輩議員から「破れ鐘の庄ちゃん」といわれているほどの大声。「あの大声でどなられたらお役人も縮みあがるよ」とも先輩議員は言う。
議員になって2期目のころ、衆議院の議事進行係をおおせつかった。この役は、本会議で緊急動議を提出するもので、第一声の『議長〜!』という呼び声が議場のすみずみまで響き渡らねばならない。この役をこなすのに議員宿舎で毎夜のように声を張り上げ、練習というか声を憤らした。
議事進行係は竹下登、海部俊樹さんなど元首相や大臣経験者が務め、政治家の登竜門といわれているだけに、自慢の一つである。


◇一隅を照らす
最澄(伝教大師)が定めた天台宗の”教育基本法”に「一隅を照らす」これはすなはち国宝という言葉が見えるが、その「一隅を照らす」が座右銘である。

家族は礼子夫人と1男2女である。子ども思いであることは世の親として当然のことだが、特に長男は目に入れても痛くないほど。たまにヒマができると、趣味の釣りを長男と楽しむのが至福の一刻。

 


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